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徳川慶喜
江戸幕府第15代将軍(在職:1867年1月10日〈慶応2年12月5日〉- 1868年1月3日。最後の将軍。
天保8年(1837年)9月29日、水戸藩第9代藩主・徳川斉昭の七男として誕生
幼名 七郎麿
初めは松平昭致(まつだいら あきむね)を名乗る。
一橋家相続後は徳川慶喜と名乗る。
将軍後見職や禁裏御守衛総督などを務めた後、徳川宗家を相続し将軍職に就任した。
歴史上最後の征夷大将軍
江戸幕府将軍の中で在職中に江戸城に入城しなかった唯一の将軍
尊敬する徳川光圀の教育方針を踏襲した父 第8代藩主 斉昭の「子女は江戸の華美な風俗に馴染まぬように国許(水戸)で教育する」という方針に則り、天保9年(1838年)4月(生後7か月)に江戸から水戸に移る。弘化4年(1847年)8月に幕府から一橋徳川家相続の含みで江戸出府を命じられるまで、9年間を同地で過ごした。
この間、藩校・弘道館で会沢正志斎らに学問と武術を教授された。七郎麻呂の英邁さは当時から注目されていたようで、斉昭も他家の養子にせず長男・徳川慶篤の控えとして暫時手許に置いておこうと考えていた
嘉永6年(1853年)、黒船来航の混乱の最中に将軍・家慶が病死し、その跡を継いだ徳川家定は病弱で男子を儲ける見込みがなく将軍継嗣問題が浮上する。慶喜を推す斉昭や老中・阿部正弘、薩摩藩主・島津斉彬ら一橋派と、紀州藩主・徳川慶福を推す彦根藩主・井伊直弼や家定の生母・本寿院を初めとする大奥の南紀派が対立した。
安政4年6月17日に阿部正弘、安政5年7月16日に島津斉彬が相次いで死去すると一橋派は勢いを失い、安政5年(1858年)に大老に就任した井伊直弼が裁定し、将軍継嗣は慶福(家茂)と決した
同年、直弼は勅許を得ずに日米修好通商条約に調印。6月23日、朝廷を無視した越権行為とみなした慶喜は登城し直弼を詰問し、7月5日に登城停止を命じられた。翌安政6年(1859年)8月27日に隠居謹慎が命じられ(安政の大獄)、一橋家はしばらく当主不在となった
安政7年(1860年)3月3日の桜田門外の変で井伊直弼が水戸藩浪士17名、薩摩藩浪士名によって暗殺。
万延元年(1860年)9月4日に恐れをなした幕府により謹慎を解除される。慶喜23歳
文久2年(1862年)、島津久光と勅使・大原重徳が薩摩藩兵を伴って江戸に入り、勅命を楯に幕府の首脳人事へ横車を押し介入、7月6日、慶喜(25歳)を将軍後見職に、松平春嶽を政事総裁職に任命させた(同時に慶喜は一橋家を再相続)。慶喜と春嶽は文久の改革と呼ばれる幕政改革を行ない、京都守護職の設置、参勤交代の緩和などを行った。
幕府内部で攘夷とするか開国とするかせめぎあいの末、攘夷の方向で朝廷と話し合いを進める。
元治元年(1864年)3月25日、将軍後見職辞任。同日、禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮転職。禁門の変では、慶喜は御所守備軍を自ら指揮し、鷹司邸を占領している長州藩軍を攻撃する際は歴代の徳川将軍の中で唯一、戦渦の真っ只中で馬にも乗らず敵と切り結んだ。禁門の変を機に、慶喜はそれまでの尊王攘夷派に対する融和的態度を放棄し、会津藩・桑名藩らとの提携が本格化することとなる(一会桑体制)抗戦の指揮。27歳
慶応2年(1866年)7月晦日、禁裏御守衛総督辞職。
8月20日、徳川宗家相続。29歳
慶応3年(1867年)10月14日、大政奉還。30歳
大政奉還を受けて、慶応3年12月9日(1868年1月3日)、京都御所の御学問所にて明治天皇より勅令「王政復古の大号令」が発せられ
江戸幕府廃止、同時に摂政・関白等の廃止と三職の設置、諸事神武創業のはじめに基づき、至当の公議をつくすことが宣言された。
大政奉還後も朝廷の委任により当面庶政を担っていた幕府はこれによって廃絶を宣言されたが、同時に朝廷(摂関以下の公家衆の機構)もまた廃絶となり、「天下の公議」による政治を行うため、天皇の下で従来の朝廷の身分秩序を超えて公家・諸大名・諸藩士から登用する新政府が発足することとなった。しかし、そこから排除された徳川家・旧幕府勢力の実体は依然存在しており、慶喜らの新政府への参画を支持する勢力もあった。
慶喜は辞官納地を拒否したものの、表向きは「恭順し配下の暴発を抑えるため」と称し、二条城から大坂城に移った。しかし、実際には経済的・軍事的に重要拠点である大坂を押さえ、その後の政局において幕府側が優位に立とうと策略したと見られる。さらに12月16日、慶喜はアメリカ・イギリス・フランス・オランダ・イタリア・プロイセンの6ヶ国公使と大坂城で会談を行ない王政復古を非難、条約の履行や各国との交際は、天皇ではなく自分の権限下にあると宣言。慶喜は、内政不干渉と外交権の幕府の保持を承認させ、更に19日には朝廷に対して王政復古の大号令の撤回を公然と要求するまでになった。
朝廷は事実上徳川幕藩体制による大政委任の継続を承認し、王政復古の大号令は取り消されなかったものの、慶喜の主張が完全に認められた。
だが、この事態に危機感を抱いた薩摩藩の暗躍に旧幕府側の強硬派が乗せられ、慶応4年1月3日に鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)に突入することになる。この戦いで旧幕府軍は薩長軍に敗退し、旧幕府方の敗勢を知った朝廷は仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍に任命すると共に、錦の御旗と節刀を与え、新政府軍を官軍とした。窮地にあった新政府は息を吹き返し、一方の旧幕府側は「朝敵」として窮地に陥る事となった。
総兵力で旧幕府軍が上回っていたが、6日夜、慶喜は自軍を捨てて大坂城から少数の側近を連れ海路で江戸へ退却した。慶喜の退却により旧幕府軍は戦争目的を喪失し、各藩は戦いを停止して兵を帰した。また戦力の一部は江戸方面へと撤退した。( 慶喜は逃げたといわれることが多い。確かに部下を残して江戸へ向かったことはいかがなことかと思うが、これまでの慶喜の行動や、水戸家の朝廷に対する歴史的な態度から考えると、朝廷に弓することに嫌気がさしていたのではないだろうか)
慶応4年(1868年)2月12日 -勝海舟、大久保一に任せて、自分は 寛永寺大慈院にて謹慎。31歳
4月4日 (旧暦)に勅使が江戸城に入り、「慶喜は水戸にて謹慎すること」「江戸城は尾張家に預けること」等とした条件を勅諚として伝え、4月11日に江戸城は無血開城。寛永寺を出て水戸に向かう。
4月15日 - 水戸藩(現在の茨城)の弘道館至善堂に謹慎
水戸藩内には尊王攘夷派(天狗党)と佐幕派の抗争があり、水戸にいては危険なため駿河に移る。
7月19日 - 弘道館を出発。
7月23日 - 駿河(現在の静岡)の宝台院に謹慎
明治2年(1869年)5月 五稜郭戦争を最後に戊辰戦争集結
9月28日 - 謹慎解除 32歳
慶喜の後年の談によれば宝台院での謹慎中、外出をはばかって中島鍬次郎から油絵を学んだというが、その後も非常に多趣味で
明治5年中だけでも銃猟・鷹狩・囲碁・投網・鵜飼をやっており、明治6年以降になると謡曲・能・小鼓・洋画・刺繍・将棋をやっている。釣りもしばしばした
明治30年(1897年)11月19日、東京・巣鴨に移住。60歳
敷地3000坪建坪400坪だったという
明治35年(1902年)6月3日、公爵受爵。徳川宗家とは別に「別家(徳川慶喜家)」の創設を許された。貴族院議員就任。65歳
明治41年(1908年)4月30日、大政奉還の功により、明治天皇から勲一等旭日大綬章を授与される。71歳
明治43年(1910年)12月8日、慶久に家督を譲って貴族院議員を辞し、隠居。73歳
大正2年(1913年)11月22日(午前4時10分)薨去。同日、勲一等旭日桐花大綬章を追贈される。76歳
東京移住後、親族関係にあった威仁親王の仲介を受けて皇室関係者と関係を強めるようになり、明治31年(1898年)3月2日には皇居に参内して明治天皇の拝謁、その後たびたび皇太子(大正天皇)を皇居に訪問
自転車に乗って銀座や東宮御所、千駄ヶ谷の徳川宗家邸までサイクリングしている。銀座は特に慶喜のお気に入りの場所になり、運動を兼ねてよく銀座にショッピングに出かけた。東京でも気に入った場所を見つけては写真撮影をし、まれにそれを榎本武揚などに贈った。上野の博物館にも行っている。東京で悠々自適の生活を謳歌した。東京に移住した後も猟にはよく出かけており、皇太子の狩猟のお供をすることもあったが、弟の昭武を連れ立って行くことが多かったようである。
もともと新しい物が好きだった慶喜は、時代の最先端の物品が流通する東京に来てからは、一層色々な物に関心を示すようになった。遅くとも明治32年(1899年)2月の段階では自分の屋敷に電話を引いた(同月一日に東京大阪間の長距離電話が開通した。千駄ヶ谷の宗家邸が電話を引いたのはこの翌月だったのでそれより早かった)。華頂宮家からお土産でアイスクリーム製造機をもらって自家製アイスクリームを作ったり、蓄音機でレコード鑑賞を楽しむようになった。明治32年6月には神田錦町の錦輝館で「米西戦争活動大写真」という実写フィルム(当時は「活動写真」といった)を見物している。これは日本で最初に上映されたニュース映画だったといわれる。明治42年(1909年)1月15日には新たな暖房器具ガス・ストーブを見るためにガス会社を訪問している。
慶喜は大正元年(1912年)にダイムラーの自動車を入手した。威仁親王がヨーロッパ旅行土産に慶喜に贈ったものといわれる。明治44年の段階では東京で自動車を個人所有している者はまだ150余人に過ぎなかったといわれるので慶喜はかなり早い段階で自家用車を入手した人物ということになる。大正元年11月16日に「自家乗用自動車」の「使用届及び自動車運転士免許証下附願」を警察署に提出して認可を受けると、すぐさま息子の慶久とともに自動車に乗って田安邸と千駄ヶ谷の宗家邸に喪中の挨拶に行っている。その後も自動車に乗って色々な所へ行っている。 ウィキペディアより
慶喜の墓
東京都台東区の都立谷中霊園に囲まれるように存在する墓所。土地の所有者は徳川家歴代将軍の墓がある寛永寺で、敷地は約300坪ある。高い柵や塀に囲われ、金色の葵(あおい)の紋があしらわれた鍵付きの門が立っている。都指定の史跡。鍵は慶喜家子孫が代々、管理してきた。
15人の将軍のうち、家康と慶喜だけが神道で他の13人は仏教で寛永寺、増上寺、輪王寺に埋葬。慶喜は家康を尊敬し、朝廷との関係から神道に改宗し、皇室にならい神式で葬儀を行うよう遺言した。一般の皇族同様円墳。
ナポレオン3世から贈られた軍服姿の慶喜
天狗党の乱
1864年(元治元年)に筑波山で挙兵した天狗党によって起こされた一連の争乱
水戸斉昭は尊王攘夷派の藤田東湖らを登用し、財政再建や軍備の増強などを進めるなど水戸藩の改革を始めた。
藤田東湖は、水戸学を確立させた人物として知られている。
水戸学とは国学を重んじる、つまり、日本の伝統や文化を研究して重んじる。そこから外国のことは排除する考えが出てくる。
これが天皇を敬い(尊王)、外国を追い払おう(攘夷)とする「尊王攘夷」の考えが生まれてくる。
藤田東湖の唱えた尊王攘夷の考え方は薩摩藩や長州藩の多くの幕末の志士たちに大きな影響を及ぼした。
このような尊王攘夷派が水戸藩内で力を持ち始め、次第に過激な事件を起こすようになり、天狗党と呼ばれるようになった。自分の意見を過激に主張するー天狗になっているーから由来する。
1858年、幕府の大老井伊直弼はアメリカと日米修好通商条約を締結。
当時の孝明天皇の許可を得ないまま締結した。(許可を得ければならないと規定されていたわけではない)孝明天皇は激怒。 孝明天皇はもともと外国が嫌い。
安政5年8月8日(1858年9月14日)、水戸藩は、幕府による日米修好通商条約調印を不服とする孝明天皇から直接に勅書を下賜されたと称した(戊午の密勅)。折しも将軍継嗣問題を巡って前藩主徳川斉昭らは、一橋徳川家当主で斉昭の実子でもある一橋慶喜を擁立し(一橋派)、大老井伊直弼と対立していた。直弼は、一橋派の中心人物は斉昭であり、密勅の降下にも彼が関与していたとの疑いを強めた。やがて直弼によって一橋派や尊攘派への大弾圧が開始された(安政の大獄)
水戸藩に対しては、斉昭に永蟄居を命じて再び失脚させ、京都での工作に関わったとみられる藩士に厳しい処分を行った。
先に朝廷から水戸藩に下賜された「勅書」については、朝廷から幕府へこれを返納するよう命じられたが、この命令への対応を巡り、天狗党は会沢正志斎ら「勅書」を速やかに返納すべしとする鎮派と、あくまでもこれを拒む激派に分裂した。
翌万延元年(1860年)になって、斉昭もついに観念して「勅書」の返納に同意したが、激派はこれに反発して実力行使を企て、高橋らは水戸街道の長岡宿(茨城県東茨城郡茨城町)に集結し、農民など数百人がこれに合流した。彼らは長岡宿において検問を実施し、江戸への「勅書」搬入を実力で阻止しようとした(長岡屯集)。
この激派の動きに対し、2月28日に、長岡宿に屯する輩は朝廷からの「勅書」返納の命に背く逆賊であるからこれを討つとして、激派追討のため鎮圧軍が編成された。これを見た長岡宿に屯していた集団は脱藩して江戸へと逃れ、水戸城下から逃れて来た激派の一団や薩摩浪士の有村兼武・兼清兄弟らと合流し、3月3日、江戸城桜田門外で直弼を襲撃して殺害した(桜田門外の変)。
8月15日の斉昭病没後も激派の行動はやまず、さらに第一次東禅寺事件・坂下門外の変などを起こすに至った。
1862年には、後に天狗党を挙兵する藤田東湖の四男、藤田小四郎が京都で桂小五郎、久坂玄瑞などと会って尊王攘夷派の結束を固める。
1863年、孝明天皇はかねてから幕府が表明していた横浜港の鎖港を催促しますが、幕府は進んで実行しようとしなかった。 八月十八日の政変により長州藩系の尊攘派が京都から一掃され、急進的な尊王攘夷運動は退潮に向かった。しかしなお天皇の攘夷の意思は変わらず、政変直前に幕府が表明していた横浜港の鎖港について、引き続き実行に移すよう要求した。9月、幕府はこれに応じて横浜鎖港交渉を開始するが、幕閣の多くはもとより交渉に熱心ではなく、あくまで横浜鎖港を推進しようとする一橋慶喜らとの間で深刻な対立が生じた。このころ諸藩の尊攘派は、長州藩に代わって水戸藩を頼みとするようになり、水戸に浪士らが群集することとなった
藤田小四郎は江戸幕府に鎖港を促すために仲間62人と挙兵したが、次第に各地から浪士や農民らが天狗党に加わるようになり、数日後には150人、その後の一番多い時で約1,400人の大集団に膨れ上がった。
挙兵した後、天狗党は日光東照宮で攘夷のための準備をするために栃木県の日光を目指すが、水戸藩内で攘夷派が排撃されていると聞いて引き返す。この時の天狗党は約700人に達していた。食糧や金も不足したが、天狗党は近くの町や村を襲い、金品を強奪したり、放火や要求を拒んだ村人らを惨殺するという暴挙を繰り返す。
水戸藩では桜田門外の変以降、過激な思想を唱える者力を失い、幕府に忠実なグループが次第に勢力を持つようになり、諸生党を作る。
藤田小四郎ら天狗党が挙兵するとこの諸生党は水戸藩内の過激派を排除しようと抗争を繰り返すようになった。
この抗争を鎮める目的で江戸から水戸藩に向けて、水戸藩の支藩の松平頼徳が派遣されることになるが、ここに諸生党などによって排除させられていた天狗党の一派が加わり大勢力となり水戸に向かう。
ここに後から藤田小四郎らが参戦。諸生党側にはあとから幕府軍が援護したために、藤田小四郎らは敗れるがなんとか逃れその仲間約1,000人と新たに集結し京都に向かうことになる。
挙兵の理由は横浜港の鎖港を江戸幕府に訴えるためだったが、この間に蛤御門の変が発生し、孝明天皇が長州藩の征討を優先するように命令を出したために、これまでの横浜港の鎖港は後回しになってしまった。そのため、天狗党は江戸幕府に向かう理由がなくなってしまった。
そこで天狗党は、同じ水戸藩出身で京都にいる一橋慶喜を通して朝廷に尊王攘夷の主張を伝えようと京都を目指して進軍。挙兵当初のような周辺の町や村を襲うようなことは改められ、迎え入れてくれる村には抵抗しないという決め事を作ってまもった。
また、天狗党の進路と考えられるところには追討令が出されていたが、これに従う藩はごくわずかでほとんどが傍観していた。天狗党は各地で戦闘を繰り返しながら進軍していくが、日に日に包囲網が広がり、大変困難を極めました。最後には追われて福井県まで迂回することになる。
そんな中、一橋慶喜が自ら天狗党の討伐の指揮を執っていることを知ると、天狗党は京都への進軍は無理と決め降伏した。捕らえられた天狗党は828名、その内352名が斬首刑され、さらには水戸藩ではその家族までが処刑された。
これによって天狗党はことごとく粛清されますが、江戸幕府が滅びると、再び実権を握り今度は諸生党の勢力を報復とばかりに次々に処刑した。
天狗党の一連の争乱によって、水戸藩では多くの有能な水戸藩士が亡くなり、明治維新後の新政府のメンバーには水戸藩の名前はない。
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