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水戸偕楽園は岡山後楽園、金沢兼六園と共に日本三名園と謳われる。
梅3千本で有名な偕楽園を作ったのは幕末の水戸藩第9代藩主、名君と言われた徳川斉昭。(寛政12年3月11日(1800年4月4日)~万延元年8月15日(1860年9月29日)
衰退した藩を経済・軍事の面で強化するため藩士の教育機関・藩校 弘道館を開き、そこでの鍛錬に疲れた藩士の意気を盛り返すために偕楽園を作り庶民にも開放した。水戸藩ではかつて第2代藩主水戸光圀(水戸黄門 寛永5年6月10日〈1628年7月11日〉 - 元禄13年12月6日〈1701年1月14日〉)が「大日本史」を編纂し、その底流にある皇国史観の水戸学が教えられ尊王攘夷の藩士も多くいた。
幕末、斉昭の時代、水戸藩浪士17名は薩摩藩浪士1名と共に桜田門外で雪の降る安政7年3月3日(1860年3月24日)、開国派の大老井伊直弼を暗殺した。桜田門外の変以降、尊王攘夷の嵐が日本中に吹き荒れる。(斉昭も尊王攘夷を唱えたが、もともと開明的な君主であり、開国もやむなしと内心考えていた。その旨の書面も残っている)
井伊大老が暗殺されたもう一つの理由は、斉昭の七男、徳川慶喜を将軍にしようとする一橋派(慶喜は一橋家に養子に出て一橋姓になっていた)に対し、紀州藩の徳川慶福を将軍にしようとする井伊直弼ら南紀派の対立があり、井伊直弼が慶福を強引に将軍家茂にしたことがある。
それでも結局、幕末の混乱の時期、慶喜を将軍にして国難を乗り切ろうと、家茂の後、徳川最後の将軍、第15代将軍となった。在職は1867年1月10日〈慶応2年12月5日〉- 1868年1月3日〈慶応3年12月9日〉ほぼ1年のみで江戸城に入らなかった唯一の将軍となった。
1860年7月に起こった禁門の変において慶喜は御所守備軍を自ら指揮し、鷹司邸を占領している長州藩軍を攻撃する際は歴代の徳川将軍の中で家康以来唯一、戦渦の真っ只中で馬にも乗らず敵と切り結んだ。
結局、徳川家は朝廷・薩摩・長州を中心とする官軍に敗れ、徳川将軍の世の中は終わるが、朝廷に対抗した形の慶喜は謹慎生活を過ごした。かつで子供時代を過ごした弘道館で1868年4月15日から7月19日まで、さらに1869年9月まで静岡で謹慎、その後大正2年(1913年)76歳で亡くなるが、非常な多趣味であった。
光圀が1657年(明暦3年)に始めて以来水戸家が続けてきた全397巻(うち本紀73巻、列伝170巻)からなる『大日本史』は1906年(明治39年)に完成を見た。
徳川斉昭
水戸黄門(徳川光圀)
と格さん、助さん
渥美 格之進(あつみ かくのしん)は、時代劇作品『水戸黄門』に登場する架空の人物。通称は格さん。佐々木助三郎(助さん)と共に水戸光圀に仕える水戸藩の侍。モデルは実在の水戸藩士・安積澹泊(通称、覚兵衛)といわれている。
隠居の商人に扮して諸国漫遊の旅に出た光圀を護衛する為、町人の「格」に扮している。武術の達人であり、光圀の命令によって旅先で出会った悪人達を成敗する。数多く発表された『水戸黄門』を題材にする作品の中では、相棒の助三郎と同じく二枚目俳優を配役される場合が多い。作品によっては怪力の持ち主と設定される
渥美格之進(格さん)と共に水戸光圀に仕える水戸藩の侍。モデルは実在の光圀に仕えた佐々宗淳(別名、佐々介三郎(さっさ すけさぶろう))といわれている。
隠居の商人に扮して諸国漫遊の旅に出た光圀を護衛する為、町人の「助」に扮している。相棒の格之進と同じく武術の達人であり、光圀の命令によって旅の先々で出会う悪人達を成敗する。
徳川慶喜
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