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偕楽園 弘道館を設立した徳川斉昭とはいかなる人か
幕末の大名(親藩)。御三家のひとつ、常陸国水戸藩の第9代藩主。江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の実父
寛政12年(1800年)3月11日、徳川治紀の三男
藩政改革に成功幕末期の名君の一人
天保12年(1841年)8月、藩校として弘道館を設立し、門閥派を押さえて、下士層から広く人材を登用することに努めた。こうして、戸田忠太夫、藤田東湖、安島帯刀、会沢正志斎、武田耕雲斎、青山拙斎ら、斉昭擁立に加わった比較的軽輩の藩士を用い藩政改革を実施した。
「経界の義」(全領検地)
「土着の義」(藩士の土着)
「学校の義」(藩校弘道館及び郷校建設)
「総交代の義」(江戸定府制の廃止)
また、「追鳥狩」と称する大規模軍事訓練を実施したり、農村救済に稗倉(ひえぐら)を設置するなどした。さらに国民皆兵路線を唱えて西洋近代兵器の国産化を推進していた。蝦夷地開拓や大船建造の解禁なども幕府に提言
宗教の面では、寺院の釣鐘や仏像を没収して海防のための大砲の材料とし、廃寺や道端の地蔵の撤去を行った。また、村ごとに神社を設置することを義務付け、従来は僧侶が行っていた人別改など民衆管理の制度を神官の管理へと移行した
天保13年(1842年)、「日本三名園」のひとつとなる偕楽園を造園
嘉永6年(1853年)6月、マシュー・ペリーの浦賀来航に際して、老中首座阿部正弘の要請により海防参与として幕政に関わったが、水戸学の立場から斉昭はペリー暗殺も含む強硬な攘夷論を主張した。このとき江戸防備のために大砲74門を鋳造し弾薬と共に幕府に献上し、また江戸の石川島で建造した洋式軍艦「旭日丸」を幕府に差し出した。安政2年(1855年)には那珂湊反射炉が完成、鉄製大砲を鋳造した
安政4年(1857年)に阿部正弘が死没、後継として堀田正睦が名実共に老中首座になるとその開国論に斉昭はますます反対を強め、開国を推進する彦根藩主井伊直弼と対立する。
さらに将軍徳川家定の将軍継嗣問題も井伊らとの争点となる。紀州藩主徳川慶福を擁して南紀派を形成する井伊派に対抗し、一橋派は斉昭の実子である一橋家当主・徳川慶喜を擁して構えた。斉昭は敗れ、直弼は安政5年(1858年)に大老の座につくと日米修好通商条約を独断で調印し、さらに慶福(家茂)を将軍とした。
一連の将軍継嗣及び条約調印の問題をめぐり、同年6月24日に斉昭は慶篤や甥である尾張藩主徳川慶恕を伴い、江戸城無断登城の上に井伊大老を詰問した。逆に翌7月、井伊直弼から水戸藩江戸屋敷で謹慎を命じられ、幕府中枢から排除された。
ところが孝明天皇による戊午の密勅は水戸藩に下され、激怒した直弼は安政6年(1859年)に斉昭の永蟄居を命じる。水戸に移されると、事実上は政治生命を絶たれる形となった(安政の大獄)。
万延元年(1860年)8月15日、蟄居処分が解けぬまま水戸で急逝した。享年61(満60歳没)。満月を観覧し、厠(かわや)に立った後に倒れたと伝えられ、壮年の頃から狭心症の症状がみられることから、死因は心筋梗塞と推定
藩校は、江戸時代に、諸藩が藩士の子弟を教育するために設立した学校。弘道館は天保12年(1841年)8月1日に仮開館式が挙行され、さらに、15年あまりの年月を要し、安政4年(1857年)5月9日に本開館式の日を迎えた。
藩校当時の敷地面積は約10.5haで、藩校としては全国一の規模。敷地内には、正庁(学校御殿)・至善堂の他に文館・武館・医学館・天文台・鹿島神社・八卦堂・孔子廟などが建設され、馬場・調練場・矢場・砲術場なども整備され、総合的な教育施設だった。
弘道館では藩士とその子弟が学び、入学年齢は15歳で40歳まで就学が義務づけられていた。卒業の制度ないので、生涯教育といえる。学問と武芸の両方が重視され、学問では儒学・礼儀・歴史・天文・数学・地図・和歌・音楽など、武芸では剣術・槍術・柔術・兵学・鉄砲・馬術・水泳など多彩な科目が教えられていた。また、医者を養成する医学館では、医学の教授のほか、種痘や製薬なども実施されていた。
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